『中国市場の構造変革の本質』と『インバウンド市場の今後』 を凝縮して学ぼう!
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デジタルがもたらす市場の構造変革 ~中国の最新事例に学ぶ~
大阪大学 招へい准教授 Tクラウド研究会 発起人・幹事
株式会社インテック プリンシパル
中川 郁夫 氏
「匿名経済」から「顕名経済」へシフト
デジタル化により、グローバルでは市場の構造変革が起きており、取引のあり方が大きく変わろうとしている。それが「取引のデジタル化」だ。従来の経済学では「取引」を「財やサービスを貨幣と交換する」と定義してきた。この「貨幣経済」の前提となるのは、大量生産・大量消費を背景とする「匿名大衆」が対象の「匿名取引」「匿名経済」だ。
現在の「デジタルの時代」は「つながりの時代」とも呼ばれ、市場モデルは「つながりの市場」に変わっている。例えば、米ウォルト・ディズニー・ワールドが導入している「マジックバンド」がそうだ。入場チケット代わりのリストバンドで、ホテルのルームキーやファストパスになり、ショップでの支払いも可能だ。来場者の名前や誕生日などの属性が登録され、スタッフが「お誕生日おめでとう!」と声をかけてくれたりもする。ディズニーが重視しているのは、年間数千万人のお客様に一律に平等なサービスを提供することではなく、一人ひとりに最適な体験・サービスを提供することである。ディズニーはこれをMy Disney Experienceとも呼ぶ。対象としているのは匿名大衆ではなく、一人ひとりが特定された「顕名顧客」だ。
もう一つ例を挙げよう。中国のシェア自転車サービス大手の「Mobike(モバイク)」は、好きな所で自転車を乗り捨てられ、乗った時間で課金される。これが実現できるのは、「誰が、いつ、どこからどこまで乗ったか」がわかるからだ。これまでの取引では、「売った時点(point of sales)=財やサービスをお金と交換するところ」までしか見ていなかったが、今の時代は「誰がいつ、どこで使っているか(point of use)」が簡単にわかる。
「つながりの時代」である今の時代は、「顧客=個客(パーソナルカスタマー)」の一人ひとりを特定でき、いつ、どこで、何を買ったなどの5W1H情報がわかる。だからこそ、お客様を特定した「顕名取引」が数多く生まれ、「顕名経済」の流れが進んでいる。まずは、このことを押さえておきたい。
「What you have」から「Who you are」へ
昨年、中国・上海のキャッシュレスの状況を視察する機会があった。上海ではQRコードとスマートフォンによるモバイル決済が当たり前になっており、現金を使用する人は少ない。路地裏にあるような古い飲食店でもモバイル決済に対応している。お寺の賽銭箱にまでQRコードが貼ってあり、モバイル決済でお賽銭を払うことができる。
キャッシュレスには、単にお金が電子化されるのではなく、より本質的な変化がある。それがよくわかるのが、中国ネット通販最大手のアリババ集団の電子決済サービス「Alipay(アリペイ)」だ。私は2015年にオフィスを訪れたことがあり、その時に応対してくれた担当者の「我々は決済事業者でなくデータカンパニーだ」との言葉が印象に残っている。
アリペイは、元々は電子商取引におけるオンライン決済サービスを提供していたが、2009年には実店舗でも使えるモバイル決済サービスを開始した。注目すべきはその電子マネーの口座だ。交通系ICカードにチャージすることを考えるとわかるように、一般に、電子マネー口座には使われないままの「滞留資金」がある。その金額が膨大なのは、中国のユーザー数が億単位に上ることから想像がつくだろう。アリペイは2013年にこの滞留資金をMMFに預けるサービスを立ち上げた。サービス開始当初、6%の高金利に設定したことから多くのユーザーが申し込み、銀行預金の全てを移すというケースも少なくなかった。結果、世界最大のMMF資産口座に成長し、現在では26兆円以上が運用されている。
データカンパニーが金融を始めたことで新たに手に入れたものは何か。それまで決裁事業者として「誰がいつ何を買ったか」という情報を蓄積したことに加え、「誰がいくらの資産を持っているか」という情報を得たことが重要な意味を持つ。2015年には、これまで蓄積してきた顧客データに行動・人脈・学歴・職歴といった様々な情報を付加して、個人の信用力を点数化する「信用スコア」サービスを展開し、信用スコアを第三者の事業者にも提供。中国では現在、この信用スコアをベースにした様々なサービスが立ち上がっている。信用スコアには与信情報が含まれ、投融資の判断などに利用される。婚活サイトでも参照され、一定以上の点数でないと合コンに参加できないといったことがあるそうだ。さらに、就活の際にも参照され、医療機関・ホテルでは信用スコアが高い人が優先して受診・予約できるとも聞く。
これまでの匿名経済は、私が誰かは関係なく、「私がいくらお金を持っているか」で取引が決まる「What you have」の取引モデルだった。一方、今の時代に起こっていることは、「顧客=個客」が対象の取引、顕名経済の時代であり、「あなたが誰か」という情報が重要な意味を持つ「Who you are」の取引モデルだ。
中国政府は、顕名経済をデジタル戦略として推進。2014年に出した報告書には、「ビックデータを使って信用に基づく経済を構築する」などと掲げている。これは理に適っている。なぜなら、顕名経済では取引コストが下がるため、経済が活性化する方向に自律的に向かうからだ。
遅れた日本が取り組むべき課題
では、顕名経済に基づく「デジタルの時代」「つながりの時代」に向けて、我々はどうすればいいのか。先を見て、どのように世の中が変わっていくのかを考え、戦略を練ることが求められている。
実は顕名経済自体は昔からあるものだ。近所の青果店では顧客を見て「今日は大根一本おまけしとくよ」などとサービスするし、「一見さんお断り」も顧客の信用を見ている。ただ、従来の顕名経済はフェースツーフェース(face-to-face)だったので規模を大きくできなかった。しかし、デジタル化が進んだ現在では、膨大な情報を集めて蓄積し、これを解析できる。規模を保ったまま、顕名経済に向かうことが可能となり、お客様一人ひとりの情報を集め、それぞれに合わせたサービスを提供できる時代になった。
現在では信用・信頼の構造も変わった。これまでの匿名経済ではお金で信用を担保し、その価値が絶対に保証される必要があった。このため、お金の価値を保証する「国」が信用の基盤となっていた。一方、お客様一人ひとりの価値を最大化することが重要となる現在では、信用の基盤を担うのは「国」ではなく、「GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)」「BAT(バイドゥ、アリババ、テンセント)」と呼ばれる米国や中国のプラットフォーマー企業群だ。それぞれ提供するサービスは異なるが、ユーザーの様々な情報を持っている点で共通し、信用基盤となることで市場を席巻している。
プラットフォーマーの提供するサービスの前提にあるのはお客様を特定する顕名取引であり、これが信用基盤となっている。日本ではグローバルに信用基盤を作り出した成功例はなく、お金による交換がいつまでたっても残っている。この彼我の差は致命的かもしれない。信用基盤をどうやって構築するのかは、日本企業の今後の重要課題だ。
デジタルがもたらすもの
今回は市場の構造変革をテーマにデジタル化について紹介した。デジタル化はよく言われるIT化とはまったく異なる。IT化は今あるビジネスモデルの中で効率化やコスト削減を図るものが多い。つまり、ビジネスそのものを変えようとするケースはほとんどない。今グローバルで起こっているのは構造変革だ。市場の仕組みも違い、ビジネスモデルも大きく変わる。こうした状況をしっかり把握しておかないと、これから先、日本企業は世界市場で戦えない。
「ビジョナリー・シンキング」の勧め
生活の仕方や都市設計といった社会モデルも大きく変わる。俯瞰した視点で変革に臨む議論をすべきだろう。
物の考え方は色々ある。古いやり方に対して、すでに確立された技術で解決しようするのは「課題解決型」だ。これは手書きで書いている人に対して「ワードを使うときれいに書けるよ」とアドバイスするようなもの。「ソリューション志向」とも言い換えられる。一方、現在の時流は、顧客が気付いていない課題を発見し、新しい技術でそれを解決する「課題発見型」で、こちらは「デザイン思考」と呼ばれる。デザイン思考では、顧客が今どう困っているかを見る。だが、その起点はあくまでも「現在」でしかない。
私が勧めたいのは「未来志向」だ。視点を10年、20年後の未来へ飛ばし、そこでの将来像・世界観を描く。そしてこのビジョンに向かって第一歩を作っていく。「ビジョナリー・シンキング」と呼ばれる考え方だ。
今現在の課題に起点を置く限り、ビジネスの発想は限定される。これからの時代に求められるのは、本質的に何が変わるのかを捉え、ビジョンを描いて踏み出すことではないだろうか。