『中国市場の構造変革の本質』と『インバウンド市場の今後』 を凝縮して学ぼう! (2019.03のアップデート版)
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デジタル時代の市場構造とデータ戦略 ~中国の最新事例に学ぶ価値創造のキモ~
大阪大学 招へい准教授 Tクラウド研究会 発起人・幹事
株式会社インテック プリンシパル
中川 郁夫 氏
「匿名経済」から「顕名経済」の時代へ
従来の経済学では、財やサービスを貨幣と交換することを「取引」と定義している。これを「交換の市場」と言う。大量生産・大量消費を前提に、匿名大衆を相手にした取引なので「匿名経済」とも呼ばれている。この市場が今、取引のデジタル化によって「つながりの市場」へと大きく変わろうとしている。
2018年11月、アマゾンが運営する実店舗の書店「アマゾン・ブックス」を視察した。店内をよく見ると、商品には値札がなく、代わりにQRコードが付いている。あらかじめスマートフォンに入れたアマゾンのアプリをそのQRコードにかざすと、「あなたへの価格はいくらです」とスマートフォンに表示される。つまり、アマゾンプライムの会員と一般の顧客では提供価格が異なるというわけである。
取引がデジタル化されるまで、取引は匿名で行われ、同じものであれば誰でも同じ価格で購入できた。しかし、キャッシュレス決済の時代になると「誰が購入したか」が簡単にわかり、「個客」一人ひとりに合わせたサービスを提供できるようになった。これは「Who(誰が)」を前提とした取引なので、「顕名取引」あるいは「顕名経済」と呼ばれている。
中国で普及しているシェア自転車サービス「Mobike(モバイク)」は、好きな時間、好きな場所で利用でき、乗った時間で課金されるサービスだが、これを可能にしているのも、QRコードとスマートフォンによるモバイル決済で、「誰が、いつ、どこからどこまで乗ったか」がわかるからビジネスとして成立している。これまでの取引では、「売った時点(point of sales)」しか見えていなかったが、今の時代は「誰が、いつ、どこで使っているのか(point of use)」が簡単にわかるようになった。
アマゾンの例で言うと、タブレットで読んでいた電子書籍の続きを、翌朝、電車の中でスマートフォンで読むことができる。それは「私が何という本を何ページまで読んだか」をアマゾンが「知っている」からである。そればかりか、「私がどんな本に興味を持ち、どんな本を購入したか、あるいは購入しなかったか」をアマゾンは把握している。つまり電子書籍は単に紙の本が電子化されたのではなく、「読書体験全体がデジタル化された」と考えた方が的を射ている。その財やサービスを「個客」がどのように体験したかを把握できるようになったことこそが「つながりの時代」の特徴なのである。
「モノを売る」から「成果を売る」へ
ノバルティスという製薬メーカーが面白いサービスを始めた。難病である多発性硬化症の治療薬「ジレニア」を服用している患者一人ひとりをモニタリングし、病気の状態に応じて最適なケアの仕方を提案するというサービスだ。製薬メーカーは通常、病院や薬局に薬を卸した時点で取引が終了するが、同社はその先までサポートし、しかも「治らなかったら、お金はいらない」とまで言う。これは成果に基づく支払いであり、「モノを売る」のではなく「成果を売る」というビジネスモデルである。
原価に利益をのせたものが「価格」と考えられてきたが、お客様にとって原価は関係なく、得られる「成果(価値)」こそが重要である。経済学では入手価格を上回る価値を「消費者余剰」と呼んでいるが、私たちは個客一人ひとりの余剰を考えるという意味で「個客余剰」という言い方をしている。匿名経済の時代には見えなかった個客余剰が、顕名経済の時代には把握できるようになった。ノバルティスが始めたのは、「個客余剰がなければ、お金はとらない」という画期的なサービスなのである。
匿名経済から顕名経済にシフトした「つながりの時代」では、お客様が得る成果で価格を決めなくてはならない。良い商品や良いサービスを提供するのはもはや当たり前のことで、世界の潮流は一人ひとりの価値観に応じて特別な体験を提供するように変わってきている。すなわち、良いモノ・サービスを提供する視点(スコープ)は、「作り手」から「個客」に移ったと言える。
「アリペイ」が始めた「信用スコア」サービス
2018年6月に上海を視察してきた。中国では無人のコンビニエンスストアが増えていて、商品のQRコードをスマートフォンで読み込めば支払いが完了し、そのまま商品を持って店を出られる。実は店内に監視カメラが多数設置されていて、決済せずに商品を持ち出せば、すぐにわかるようになっている。中国では路地裏の小さな飲食店にもQRコードによるモバイル決済が浸透していて、お寺の賽銭箱にまでQRコードが貼ってある。
キャッシュレス決済は単にお金が電子化されただけでなく、社会により本質的な変化をもたらしている。それがよくわかるのが、中国のネット通販最大手・アリババグループの電子決済サービス「Alipay(アリペイ)」である。
アリペイは当初、電子商取引におけるオンライン決済サービスを提供していたが、2009年から実店舗でも使えるモバイル決済サービスを開始した。現在、中国では年間約4,000兆円が電子決済されている。そのうちの54%がアリペイを使った決済で、利用者数は9億人に上るという。
アリペイの電子決済は、利用者が現金をチャージして使う電子マネーの仕組みが採用されている。そのため、電子マネー口座には使われないままの「滞留資金」が存在する。アリペイは9億人分のこの滞留資金に目をつけ、2013年にそれをMMFに預けるサービスを立ち上げた。サービス開始当初、金利を銀行預金よりかなり高い6%に設定したこともあり、多くの利用者が殺到した。その結果、わずか4年でアリペイのMMFは世界最大の資産運用サービスになり、現在では32兆円ぐらいが運用されている。
アリペイは元々、決済事業者なので「誰が、いつ、どこで、何を買ったか」という情報を蓄積している。加えて、この資産運用サービスを始めたことで「誰が、いくら資産を持っているか」という情報も手に入れた。2015年にはそうした顧客データに、学歴や職歴、人脈、社会的ステータスなどの情報を付加して一人ひとりの信用力を数値化し、第三者に提供する「信用スコア」サービスを始めた。中国では現在、この信用スコアが投融資の判断や利率の優遇に利用されたり、結婚紹介サイトやホテル予約の際に参照されたりするなど、様々なサービスが生まれている。
「What you have」から「Who you are」へ
従来の大量消費・大量生産を前提とした匿名経済では、私が誰かは関係なく、「私がいくらお金を持っているか」で取引が決まる「What you have」の取引モデルだった。一方、今の時代に起こっていることは、「顧客=個客」が対象の取引、顕名経済の時代であり、「あなたが誰か」という情報が重要な意味を持つ「Who you are」の取引モデルだ。
モノやサービスと貨幣を交換する匿名経済では、「誰が」という情報は一切出てこなかった。しかし、顕名経済では「誰が」が簡単にわかり、どんな人なのかも参照できる。実はこうした顕名経済自体は昔からあり、たとえば商店街の青果店では、お客様を見て「今日は大根1本おまけしとくよ」といったサービスが当たり前に行われてきた。ただ、従来の顕名経済はface to faceだったため、規模を大きくできなかった。しかし、デジタル革命によって膨大なデータを蓄積し、それを解析できるだけのコンピューティング・パワーを手に入れた現代では、規模の大きさを維持したまま、お客様一人ひとりに合わせた最適なサービスを提供できるようになった。
大量生産・大量消費の時代はブランド力が信頼の基盤だったが、「つながりの時代」では口コミやネットでの評判、コミュニケーションが重視される。取引は匿名から顕名に変わり、そのお客様が「いくらお金を払えるか」より、「どんなことに価値を感じ、何が成果になるのか」といったことを把握することが重要になっている。アメリカの「GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)」や中国の「BAT(バイドゥ、アリババ、テンセント)」などの巨大プラットフォーマーは、世界的な規模でそうした情報を所持しており、それを信用基盤に市場を席巻している。
生活全体をデジタル化する平安保険
こうしたデジタル時代に、私たちはどんな戦略で臨まなくてはならないのだろうか。ヒントになる例を挙げると、中国に平安保険という保険会社がある。この会社では「グッドドクター」という無料のスマホアプリを提供しており、約3億人が利用している。このアプリには歩数計が付いていて、歩けばポイントが貯まり、景品がもらえる。病気になったときにはオンライン診断が受けられ、信頼できる医師を紹介してもらえる。つまり平安保険は、顧客と情報を共有することで、その人が必要なサービスを的確に、タイミングよく提供できる。また、健康、育児、医療などをサービス接点(顧客接点)としてデジタル化し、人生の節目節目でサービスを提供できる仕組みを作り上げており、そのサービスは財テクや資産管理、不動産売買などにも広がっている。
確率と統計でビジネスが成り立つ従来の保険会社は、顧客一人ひとりを見る必要がなかった。しかし、平安保険では「個客」それぞれの価値観、行動、生活をデジタル化することによって独自の信頼基盤を築き、満足度を上げることに成功している。平安保険のデジタル戦略は、顕名個客が対象の顕名取引を行い、「個客」の状況に適応した価値に注目し、貨幣価値(売上・利益)以上に「個客」の満足度で信頼を得る経営戦略である。
お客様を特定することによって得られる情報は、購買行動はもちろん、興味や関心の対象、自社商品に対する評価や推奨など、山のようにある。これが「個客価値」であり、そうした情報はそのまま事業のヒントになる。お客様の視点に立ち、一人ひとりの価値をきちんと考え、分析することこそがデジタル時代の価値創造戦略である。