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玉生弘昌(元会長)の読書

嘘と正典 (小川 哲著、早川書房)

 最初の場面は、フリードリヒ・エンゲルスが裁判にかけられるところから始まる。カール・マルクスを生涯にわたり支援し続けた、あのエンゲルスである。エンゲルスはマンチェスターの紡績工場の経営者の息子として生まれるのだが、社会主義に惹かれ、社会主義政党や労働組合でも活動した人物である。そのエンゲルスが、同業者の紡績工場で労働者による打ちこわしがあった時に、それに加わったのではないかという疑いで、裁判にかけられている。産業革命後半に起こった打ちこわし運動(ラダイット運動)で、工場の機械を叩き壊した者は重罪に問われる。有罪となると流刑地オーストラリアに島流しになるかもしれない。
 時代が変わって、東西冷戦時代のソビエト連邦のモスクワでアメリカのCIAの諜報部員ホワイトが登場する。ホワイトは、ソ連の内通者ペトロフからたびたび機密情報を受け取っている。ペトロフは先端技術の研究員で、ソ連ではそうした研究員にはKGBの監視がついているのだが、ペトロフは監視の目をかいくぐってホワイトに情報を渡してくれる。ペトロフは最新の静電加速器を使って研究をしているのだが、様々な実験をしているうちにエネルギーが過去にさかのぼって放出されることを発見する。この成果についてもペトロフはCIAのホワイトに知らせる。
 最初は信じなかったホワイトだが、この現象を使えば、過去にメッセージを送れるのではないか、エンゲルスの裁判の証言者にメッセージを送り、エンゲルスを有罪にできれば、マルクスへの支援が止まり、マルクスが「資本論」を書き上げることを阻止できるのではないかと思いつく。ドイツからイギリスに渡ってきたマルクスは生活に困窮していてエンゲルスの援助なくして執筆などできない。共産主義の原点である「資本論」が書き上げられなければ、この地球上に共産主義国家が生まれることがなく、東西冷戦による多くの悲劇も防げるかもしれない。
 エンゲルスを有罪にすることができるかもしれない重要な証言者ストークスにメッセージを送ろうとホワイトは考える。そして、ホワイトはペトロフに過去の証言者ストークスにメッセージを送ることを依頼する。幸い、ストークスは電信技術者であった。
 そして、最後の場面、エンゲルスへの判決であるが、それは明かすわけにはいかない。本書をお読みください。
 なお、この本には「嘘と正典」以外にも5本の短編が併載されている。いずれも時空をテーマにしたSFである。そして、いずれにも過去の哲学者や思想家が述べたことが多数ちりばめられていて、興味を持って読むことができる。
 著者の小川哲氏は東京大学総合文化研究科を卒業、まだ三十代の有望作家である。本書で直木賞を受賞しているが、他にも山本周五郎賞、SF大賞などを受賞、これからの活躍を期待したい。

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