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玉生弘昌(元会長)の読書

ふりさけ見れば (安部龍太郎著、日本経済新聞出版)

 本書は、日本経済新聞に連載されていたが、あまりの登場人物の多さに、途中で読むのをやめてしまった小説である。しかし、関心を持っていたので、本書を買って読んでみた。有名な玄宗皇帝と楊貴妃、そして詩人の李白、王維(官吏でありながら書画をよくし文人画の祖と言われている)、安禄山(玄宗皇帝に対し反乱を起こす将軍)などなど、後半では鑑真和上まで登場する長編小説である。上下巻合わせて900頁もある。
 実は、遣唐使には以前から関心を持っていた。遣唐使の船に玉生という人が乗っていたからである。遣唐使は数隻の船で500人もの人たちが派遣されていた中に鋳生、鍛生など多くの工人もいて、中に玉生(ぎょくしょう)という玉造の職人も乗っていたのである。時折、遣唐使に詳しい人から問われることがある。
 余談はさておき、唐に渡った阿倍仲麻呂は超難関の試験・科挙に若くして合格し、官職につき、時の宰相・張九齢に見いだされて、官位を上げ、玄宗皇帝からも信任を得る。張九齢の姪を娶り、さらに後年楊貴妃の姉・大鈴と再婚、宮廷との人脈も広げていく。国外から渡来した人でありながら、異例の大出世をする。しかし、遣唐使は中国で学んだことを日本に帰って活かすことが使命である。仲麻呂も使命を果たすべく、船に乗って帰国を試みるのだが、難破して唐に戻り、結局、生涯日本に戻ることはなかった。
 仲麻呂は、出国する船に乗る前夜に次の和歌を詠んだ。
 「天の原 ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に 出でし月かも」
 この歌は遠い唐の国の蘇州で詠まれているのに、後年の百人一首に選ばれ、多くの日本人に知られている。当時の仲麻呂の活躍は日本にも伝わり、大評判になっていたに違いない。

 唐との関係について次のように書かれている部分があった。
 日本は白村江の戦い(663年)で唐と新羅に大敗する。その敗北から40年後に遣唐使を派遣し、唐との関係を修復しようとするが、その時に唐から突き付けられた条件は、①律令制度の導入、②仏教を国の基本理念とすること、③長安に倣った都を築くこと、④国史を明らかにすることだったということである。日本はこれに応えて、①大宝律令を制定、②全国各地に国分寺と国分尼寺を建立、③藤原京から平城京に遷都、④日本書紀の編纂を行ったということである。
 これで、目を開かされた。なぜ遷都をしたのか、なぜ似たような歴史書(古事記と日本書紀)が相次いで書かれた理由が分かった。唐によって、古事記は伝奇的な叙事詩に過ぎないとされてしまったため、書き直しをしたということである。安倍龍太郎という作家の力量に敬服するしかない。

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