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玉生弘昌(名誉会長)の読書

方丈記(現代語訳付) (鴨 長明著、訳注:簗瀬 一雄、KADOKAWA/角川ソフィア文庫)

 現代社会ではあり得ないような戦争が始まり、さらには、パンデミック、地震、洪水、干ばつなどが各地で起こり、地球環境の悪化は間違いなく加速されている。しかし、国連は機能せず、日本の外交も無力で、もちろん個人の力ではいかんともし難い。無力と無常を感じる昨今である。
 そこで、鴨長明の「方丈記」を思い出した。書店に行くと「方丈記」関連の本がたくさん並んでいた。読んでみたくなる人が増えているのだろう。
 800年以上も前に著された随筆「方丈記」の冒頭には『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまる例(ためし)なし。』とある。平安時代に栄華を極めていた平家が滅亡し、源氏による鎌倉幕府ができるころのさまざまな社会不安を反映した心情が記述されている。
 下加茂神社の宮司の家に生まれた鴨長明は、後鳥羽院の和歌所の寄人(よりうど)に任じられるなど、歌人としての評価を得ていた。一方で、琵琶にも才能を示していたが、演奏を許されていない曲目を奏でたことをとがめられるという事件があり、宮中でいじめられたことがあったようである。さらに、神社の禰宜(ねぎ)に選任されるという話が沙汰止みになってしまう。そして、50歳のころに出家して、京の北の大原に小さな庵を編んで隠遁(いんとん)暮らしを始める。
 鴨長明は、その小さな庵に暮らしながら、日々経を読み、時には琵琶を奏で、和歌を詠む。だが、多くの天変地異に遭遇する。安元3年(1177年)の大火、治承4年(1180年)の辻風と養和元年(1181年)飢饉、元暦2年(1185年)の大地震と立て続けに災害が起こったことが書かれている。この最中に、平清盛による福原遷都(1180年)が行われた。呪われた都から離れようということだったのだろうが、福原の地(兵庫県摂津のあたり)は狭く、都を開くには全く不向きだったため、1年を経ずして再び元の平安京に戻ることになった。その朝令暮改ぶりによって、平家の評判は地に落ちる。そして1185年に、源頼朝の弟義経によって平家は壇ノ浦で滅ぼされる。
 「方丈記」によれば、次々と天災と戦災に襲われた都には、死骸があふれ、街中に死臭が漂っていたということである。死んだ母親の乳房に縋りついている赤子の姿など、多くの行き倒れた人々の悲惨な様子が記述されている。この地獄のような光景を見て、無常観にとらわれない者はいない。ほぼ同時期に編さんされた平家物語にも『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』と記されている。
 現在の世界でも多くの不条理がある中で、「方丈記」にあるように、ゆく河の流れはとどまる事はない。プーチンの暴走を止められず、ミャンマーの軍の独裁に打つ手がないことに無力感があり、無常観があるが、いつか必ず次なることが起こり、歴史が流れ行くのは間違いない。

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