「自分」の壁 (養老孟司著、新潮新書刊)
大ベストセラーだった『バカの壁』の著者・養老先生も84歳になった。
近頃、立て続けに本を出している。地元の鎌倉駅前の本屋には、養老孟司コーナーが設けられ多くの著作が並んでいる。「養老先生、病院へ行く」、「遺言」などという本もある。どうも、晩年になって言い残しておきたい思いがあふれているようである。
鎌倉駅の西口側には、先生が立ち寄る喫茶店がある。窓際の席でゆったりとたばこをふかす姿をお見かけしたことがある。医者なのにたばこを吸っているのだが、先生に限っては違和感がない。地元の人たちも温かく見守っている。医者なのにといえば、養老先生は病院嫌いで何十年も病院へ行ったことがなかったそうであるが、一昨年(2020年)心筋梗塞で入院したという、お大事にしてほしいものである。
さて、本書であるが、自分とは地図の上にある現在位置の矢印のようなものであると書いてある。観光地などに掲げてある地図には、現在の自分がいる場所が矢印で書かれている。その矢印が自分なのだという。社会構造の中の矢印があれば、それは地位だという。環境があっての自分ということだろうが、何となく分かったような気がする。
近頃「子供の世話にはならない」という人が増えているが、それは「子供の世話をしない」という考えにつながると先生は指摘している。そして、最終的には自分勝手ということになる。老後は必ず誰かの世話になるし、集団の中で他人とかかわらない個は成り立たないということなのだろうが、養老先生は断定をしない。このような、何か変だという事象をたくさん取り上げているが、結論めいたことは書かれていないため、すこし分かりにくいことがある。
ただ一つだけ、強く印象に残った記述がある。昆虫の不完全変態と完全変態について、ヤゴがトンボに変態するのは不完全変態で、芋虫が蝶になるのは完全変態であるが、後者の変態は完全に違う生き物になっているのではないかということである。ヤゴには六本足も強い顎もあり、トンボになってもそのままの足と同じような顎を持つ、しかし、芋虫には羽がないのに、蝶になると羽が生え、足がないのに六本足になり、口は葉っぱをかじる口だったのが花の蜜を吸うだけの口に変わる。芋虫と蝶は違う生き物となっている。人間の細胞の中にいるミトコンドリアは、別の遺伝子を持っていて、自分の中に別の生き物がいるようなものである。ミトコンドリアの遺伝子が発現すれば、人も別の生き物になるかも知れない。ちょっと考えさせられる話しである。
要は、自分の主観で世界を見ている自分がいるわけだが、人間としては、自分とは違う他者を理解し、つまり「自分の壁」を突き破り、思いやりを持つことが必要のようだ。養老先生の思いを上手に受けとめたいものである。