羊と鋼の森 (宮下奈都著、文藝春秋)
今年の本屋大賞の本書を読んでみた。表題だけ見ても、何の本だか分かり難いが、ピアノの調律師の成長物語である。羊の毛で作ったハンマーが鋼の弦を叩くと言う構造のピアノを森の奥深さにたとえている。演奏会に行き感銘を受けることはあるが、本書を読むと、それを支えている調律師の世界を垣間見ることができる。
主人公の外村は、高校の体育館で調律師が調律している姿を見て、調律師を志す。調律師の専門学校を出て、楽器店に入社する。楽器店には、調律師の先輩が数人いる。ピアニストを諦めて調律師になった人、客の信頼が篤い人、高い技術を持つ人などとの会話の中で、彼らの一言一言に外村は調律師とは何なのかを求めて行く。
調律に完璧はない。客の要望に合わせること、客の技量に合わせること、単に音程を合わせること、何が成果なのか、外村は迷う。客は「音がくっきりした」、「平べったい音が丸くなった」などと言う。一応の評価はしてくれたのだろうが、それでいいのか。
先輩たちは様々な言葉で、語ってくれる。一番尊敬している先輩が「明るく澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、厳しく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」と言う原民喜(小説家)の言葉を教えてくれた。「明るく澄んで懐かしく、少しは甘えているようでありながら、厳しく深いものを湛え、夢のように美しいが現実のようにたしかな“音”」なのだと外村は少し理解する。
どうやら、この原民喜の言葉は著者宮下奈都自身の小説家としての命題のような気がする。ピアノの音の美しさの本質に多くの言葉で迫って行こうと言うのがこの本の目指すところであると思われる。 ある日、双子の女子高生のいる家に先輩調律師と行き、調律をする。調律が終わった後、双子はそれぞれに演奏、姉はまじめで正確な演奏、妹は明るいのびやかな演奏、いずれも素晴らしい。この姉妹は、少々の困難を乗り越えて成長する。最後は、主人公の外村の調律したピアノで素晴らしい演奏をする。
本書には波乱万丈はなく、淡々とした日常の中で主人公が成長し、周囲も変わって行く様子が描かれている。登場人物たちの思いやり、心づかい、分からせようと言う配慮などに触れることができ、心地よく読める一冊である。