大津事件と大泉黒石
いま住んでいるわが家は、鎌倉の稲村ガ崎の姥谷(うばがや)と言う谷の中ほどにある。谷を見下ろした先には逗子の海岸が見える。更に、眼を凝らすと湘南国際村が遠望できる。左右は森で、たくさんの蝶が飛び、野鳥の声がこだますると言う自然豊かな地である。しかも、文化の香りもする。谷の一番奥には彫刻家の高田博高のアトリエ、すぐ下は経済学者の大内兵衛の別荘だった家があり、その左側の家には哲学者の西田幾多郎が住んでいた。また、少し下った所にはエリザベスサンダースホームの澤田美喜の自宅、谷を出て海に面した所には有島生馬のアトリエがあった。以上の方々は故人であるが、最近は桑田佳祐、小林克也、TOKIOの山口達也などが近くに越して来ている。
この家は、大泉さんと言うご婦人から購入した。
購入する前に父を連れて下見に行った。鎌倉の宮大工が建てたというなかなか凝った家で、父は大いに気に入った様子であった。一通り見た後、話好きの父は大泉婦人となにやら話し込んでいた。帰り道で、父が「あの人は大泉黒石の娘さんだということがわかった」と言った。
大泉黒石(おおいずみ こくせき)については知らなかったのだが、調べてみると1920年代(大正時代)にベストセラーになった『老子』、その続篇『老子とその子』、『人間開業』『人間廃業』などの小説とゴーリキーの『どん底』の翻訳を執筆している。『人間廃業』は、太宰治の『人間失格』に影響を与えたと言われている。父の話では、大泉黒石と父は早稲田大学の講師をしていた時に面識があり、大泉黒石は父の実家にしばらく滞在していたこともあったと言うことである。つまり、現在の家は妙な縁(えにし)で結ばれた家なのである。
大泉黒石は実に数奇な人生を送った人物なのである。
話は遡るが、明治24年(1891年)に、来日したロシアのニコライ皇太子が斬りつけられるという「大津事件」があった。滋賀県大津で皇太子を警護していた巡査が突然皇太子を襲ったのである。この時、神戸港にはロシア海軍の艦隊が停泊していた。ことと次第によっては、艦隊が砲撃を始めるかもしれない。明治政府は慌てたが、明治天皇が直接謝罪に赴くなどしたため、それ以上の問題にはならず皇太子は帰国した。しかし、ニコライ皇太子は大の日本嫌いになり、日本人を黄色い猿と呼ぶようになった。その後、皇太子はロマノフ王朝の皇帝ニコライ二世なり、やがて、この大津事件は日露戦争へとつながって行く。日本とロシアの間で朝鮮半島を巡って争いが起こると、ニコライ二世はバルト海の艦隊を日本派遣した。ニコライは当時最新鋭の蒸気船を揃えたバルチック艦隊があの猿の国日本を一蹴することに何の疑いも持っていなかった。しかしながら、ご存知の通り東郷平八郎率いる日本海軍がバルチック艦隊を殲滅した。この痛手がロシア王朝を弱らせ、共産革命が起こり、ロマノフ王朝は消滅した。
この大津事件の時、皇太子に随行していたロシア人アレクサンドル・ステバノヴィチが世話役だった日本人女性を見初めて、子を生した。その子が大泉黒石なのである。
黒石は、長崎で生まれたのであるが、幼少期はロシアやフランスで過ごし、ロシア革命が始まると日本に戻り、日本で高校と大学の教育を受けた。当時、混血児は白い目で見られていた。そのため、社会的には恵まれず様々な職業を転々とする。だが、自らの数奇な生い立ちを綴った自叙伝が評価され作家になり、前述のようにベストセラーも書いた。
その黒石の子供が大泉婦人なのであるが、もう一人の子の大泉滉は俳優になった。テレビにも出ていたので、ご記憶の方もいるかと思うが、大泉滉はいわゆるクオーターで外国人風の顔立ちであった。主役級は少なかったが、非常に多くの映画に登場していた。元家主の大泉婦人は姉なのか妹なのかは聞き漏らしたが、大泉滉と同じクオーターで顔立ちは似ていた。
その後、大泉婦人との音信はないが、俳優の大泉滉は1998年に73歳で亡くなっているので、もう他界されているかもしれない。
玉生 弘昌