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玉生弘昌(名誉会長)のエッセイ

東大の歌姫

 10代のころは浦和に住んでいて、地元の埼玉県立浦和高校に進学した。ちなみに同校の同窓会会長は日本スーパーマーケット協会会長の川野幸夫先輩である。
 高校では山岳部に入り、毎週のように秩父の雲取山に登っていた。高校を卒業して早稲田大学に入学すると、母が山岳部だけは止めてほしいと言うので、やむなくスキーを始めた。だが、大学のスキー部に入れるほどの腕前ではないため、もっぱら友達を集めてスキー旅行に行っていた。
 そんなある日、ゼミ仲間が彼の出身校の新宿高校の卒業生によるスキー同好会があるから入らないかと誘われた。渡りに舟と早速入ったが、大半が東大生であった。少々気後れするところもあったが、女性会員がたくさんいたので、不純な動機ながら、誘われるまま何度も合宿スキーに参加した。昼はスキー、夜は飲みながらみんなで歌を歌った。中に、とびきり歌の上手い娘がいた。聞けば、東大の文化祭五月祭の舞台でも歌を披露し、加藤登紀子とともに東大の歌姫と呼ばれていたそうだ。彼女が歌う「桜貝の歌」が素晴らしかった。彼女のリードで何度も何度も歌ったものである。 
  〽うるわしき桜貝ひとつ・・・〽で始まる歌詞は、今でも耳に残っている。
 実は、昭和の中頃まで鎌倉の由比ガ浜に桜貝がたくさん散らばっていた。残念ながら今は桜貝を見つけることはほとんどできないが、「桜貝の歌」はこの由比ガ浜で詠まれたものである。由比ガ浜には「桜貝の歌」の歌碑が建っている。裏面には楽譜も刻まれている大きな石碑である。子供の頃に、この浜で桜貝を拾い集めた記憶がある私にとっては、感慨深い歌である。

 そして、スキー同好会の仲間が大学を卒業し就職すると、同好会は自然と解消してしまった。だが、それから40年経ち、再び集まるようになった。
 もうスキーに興じる歳でもないため、今度は川柳クラブとして復活したのである。みんなで川柳を詠み幹事がハガキに書いて週刊文春に毎週投稿するのである。たまに誰かの句が選ばれ週刊文春に載る。
 恥ずかしながら、私の川柳も選ばれたことがある。ちなみに「障子」というテーマの句で「障子閉め内緒話をする遺族」と言う句である。

 さて、久しぶりに集まるようになったある日、その歌姫の彼女に「玉生さん。流通業界で通信サービスをしているのだったら、荒井伸也って知っている?」と、問われた。「私の兄なのっ」と言われてびっくりした。そういえば彼女の旧姓は荒井だった。荒井伸也氏といえば、スーパーマーケットのサミットの社長になり、その後はオール日本スーパーマーケット協会会長になった方である。更に、文才を活かして安土敏と言うペンネームで「小説 スーパーマーケット」、「後継者」などを書いている。「小説 スーパーマーケット」は伊丹十三監督による映画「スーパーの女」の原作となった。荒井伸也氏には私の会社で講演をしてもらったこともあるし、何度かゴルフをご一緒にさせていただくなど親しくさせていただいている。
 憧れの歌姫が、この荒井伸也氏の妹君であったことに長い間気付かずにいたのである。
 しかし、残念なことには、40数年ぶりに再会した彼女は病を抱えていた。40歳の時に乳ガンが見つかったのだそうだ。再会した時は60代半ば、それから数年後に亡くなってしまった。享年71歳、早すぎる死である。本当に心の温かい女性で、いつも笑みを絶やさず何か惹きつけるモノを持っていた。もちろん聡明で、人の話に的確に応じてくれる人だった。もっともっと長く、旧交を温めたかった。
 葬儀に伺って、荒井氏にお悔やみを述べると、「一番良い子だったんだ」と一言。荒井家の中でも、輝いていたに違いない。

玉生 弘昌

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