インテックのデジタルパケット通信
1985年に「電気通信事業法」が施行され、日本の通信が自由化されることになった。電電公社がNTTになり、たくさんの民間のVAN会社が次々と立ち上がった。VANとは付加価値通信網のことで、単なる通信ではなく、スピード変換、フォーマット(データの書式)変換、コード変換、などのサービスを付加して通信するという事業である。当時VANがブームとなり、規制緩和による新事業チャンスであるともてはやされた。VANについての本もたくさん出版された。本に必ず記載されていたことは、100社と10社が通信しようとすると、100×︎10=1,000回の接続が必要であるのに対して、間にVANが仲介すると100+10=110回となり大幅にコストダウンするという説明であった。
しかしながら、当時の通信技術の回線交換方式ではできなかったのである。回線交換はその都度1対1でつなぐ方式だから、同報通信はできず、どうしても100×︎10=1,000回になる。ところが、日本で唯一、デジタルパケット技術で複数対複数の通信ができる会社があった。それが富山に本社があるインテックであった。デジタルパケットは、今はインターネット通信では当たり前なのであるが、インテックはアメリカの通信会社GTEテレネットと提携し、本当のVANができるサービスをいち早く始めていた。
当時、私は39歳で、ライオン株式会社の社員であったが、これを使えば、業界規模のすごいネットワークができると考え、業界VAN運営会社構想をまとめてライオンの役員会に提案した。当然パートナーはインテックとした。ところが、インテックを知る人は一人もいなかった。中には「 インテックとつるんでうまくやろうとしているのではないか」などと言う人もいて、頓挫してしまった。
しかし、それから数週間後、小林敦社長がこの案で行こうと言い出した。
後で聞いた話だが、小林敦社長が慶応大学同期の綿貫民輔氏とが飲みながら、この話をしたところ、富山県選出の代議士綿貫民輔氏はインテック社長の金岡幸二氏の日本の通信改革に対する並々ならぬ意欲をよく知っていて、インテックは素晴らしい会社だと話してくれたそうである。金岡幸二社長は日本の通信の発展に尽力した功績で郵政省と通産省の大臣賞を受賞している。
綿貫氏がインテックをよく知っていたのは、インテックが設立されたときの発起人の一人だったからである。ご存知の通り綿貫民輔氏は衆議院議長を務められた政界の重鎮である。また、トナミ運輸の社主、さらに神主でもあるというすごい人なのである。
その後、私が構想した業界VAN運営会社「プラネット」は設立され、監査役には綿貫民輔氏をお迎えし、取締役社長にはインテックの金岡幸二社長、取締役にはライオンの小林敦社長、資生堂の大野良雄社長、ユニ・チャームの高原慶一郎社長、サンスターの金田博一社長、十条キンバリーの大河津謙一社長、ジョンソンの御厨文雄社長、エステーの鈴木誠一社長、牛乳石鹸の宮崎楢義社長などそうそうたる役員の中で、私が常勤の常務取締役という構成でスタートした。私はまだ40歳であった。懇親会は超一流料亭で行われるし、取締役会に出席される綿貫先生にSPが付いて来るし、気を使うことばかりであった。それから32年、お陰様で一般消費財業界のメーカーと流通業約1,300社がユーザーとなり業界のインフラとして定着するようになった。
当初の役員の方々には、お亡くなりになった方もいるが、綿貫民輔先生、高原慶一郎氏、鈴木誠一氏などご健在の方も多く、今でも頼りにしている。
(本稿は雑誌「財界」に掲載されたものに若干の修正加筆したものです)
玉生 弘昌